チラシの裏は意外と白くない

最近忘れっぽくなったので調べたことをチラシの裏に書きます

戦国北条記1

室町時代の発足〜南北朝統一

室町幕府の前の幕府でにあたる鎌倉幕府は、後醍醐天皇によって滅ぼされる(建武の新政)。これにより政権が再び幕府から朝廷に戻されるも3年ほどで足利尊氏によって打倒される。1336年に足利尊氏を初代将軍とする幕府が室町幕府ということ。

このとき、戦に負けた後醍醐天皇は京都から奈良県の吉野に脱出。尊氏は後醍醐天皇の後継として光明天皇を擁立する。そのため室町時代初期は京都の北朝、奈良の南朝と二つの朝廷が並立する事態となった。この並立した時期を南北朝時代とよぶ。鎌倉時代南北朝時代室町時代南北朝時代を含めて室町時代とする広義の解釈もある。

朝廷が二つ存在するため、勢力争いが絶えず、また足利政権内部での争いも多く、初代・尊氏の時代から室町時代は不安定な時代だったらしい。この南北朝の統一は、3代将軍・足利義満の時代に果たされ、この時期が最も安定した時代で、北山文化が栄えた。

北山文化とは、北山山荘を中心に展開された文化で、のちの8代将軍・足利義政の時代に発展した東山文化に対して、そう呼ばれる。北山文化はとにかく派手で、金閣寺が有名。脳や狂言といった文化もこの時代に発展した。調べてみて、確かにこの辺は中学で習った記憶がある。

室町幕府の衰退へ

6代将軍・足利義教が謀殺されることで、室町幕府は衰退の一途をたどり始める。この義教、もともと青蓮院に入れられてお坊さんをしていたところをくじ引きで当選したために将軍になったのだとか。そういう事情もあって帝王学を学んでおらず、強引なやり方で政治を進めた。有力守護大名の相続問題に口を出したり、鎌倉公方(後で出てくる)の足利持氏を滅ぼし、専制化を進める義教に危機感を抱いた、播磨・美作・備前国守護の赤松満祐によって殺されてしまう。嘉吉の乱

守護というのは、幕府から命じられてその地の軍事、警察、御家人の統率を行う役割ということで、まあ都道府県知事的な感じで考えておけば良いか。守護のうち力をつけたものが守護大名と呼ばれ、のちの時代に登場する、自分の実力で国を支配した戦国大名との対比になっている。

この嘉吉の乱を鎮圧したのが細川氏・山名氏であった。以後、両氏によって幕府の運営がなされていく。続いて、8代将軍足利義政の時代。飢饉や守護大名の悪政によって、一揆が頻発していた時代に、新室町殿というとんでもない豪邸を建てたことなどもあり、応仁の乱に繋がっていく。

応仁の乱

応仁の乱の主人公というのが、細川勝元山名宗全らしい。嘉吉の乱を鎮静した細川氏、山名氏の末裔。細川氏は土佐、讃岐、伊予、丹波、摂津の守護。山名氏は但馬、備後、安芸、伊賀、播磨の守護。当初、義政・勝元・宗全は牽制しつつも平穏を保っていた。 この頃、義政に変わって政所執事伊勢貞親が政治を主導した。政所というのは、幕府のお金を管理するもので、まあ大きな権力を持っていたということ。この伊勢氏が北条早雲の出自である備中伊勢氏の本家にあたる。ということで、この時点で北条早雲=伊勢氏は幕府側

この伊勢貞親、幕府の専制を推し進めるために、各地の守護大名家督争いに介入したりすることで守護大名の勢力を削減しようと小細工を働いていた。本の中では大局観のない小才子タイプと評されている。この動きに対して、細川勝元山名宗全両氏が手を組んで対抗していた。

この頃、将軍家にも後継者問題が発生していて、

  1. 当時、男子のいない義政は自分の弟、義視を後継予定者とする
  2. が、翌年に義政に義尚という子供が生まれる
  3. そのさらに翌年、義視に義材という子供が生まれる
  4. 伊勢貞親が義視親子を失脚させるべくデマを流す
  5. 4について細川勝元が糾弾し、結局義政から貞親に対し切腹が命じられる
  6. 貞親は一旦身を隠し、子息の貞宗を代理に立てて勢力挽回に努める

というゴタゴタがあった。文政の政変という。

さらにそうこうしているうちに、同時並行的に細川・山名両氏の関係が悪化し、二つの勢力に分裂していく。また、農業生産性の向上によりこれらに関係ない各地の守護も勢力を拡大、こうして応仁の乱へと進んでいく。応仁の乱では、足利義視細川勝元山名宗全が活躍する。義政はというと、伊勢貞親を追放したおかげで、権力を行使する手段を失い、東山山荘の造営などの文化事業を進め、これがのちに東山文化と呼ばれる。銀閣寺も東山文化の建造物の一つ。銀閣寺建立時は幕府が貧乏で、銀箔を貼れなかったと習った記憶があるが、なるほど納得。かくして、応仁元年1467年に東軍細川・西軍山名の武力衝突が始まる。

同年、事態を収集させるべく義政は貞親を許して元の座に戻し、東軍・細川を支持する。自分を陥れようとした貞親を許せない義視は西軍・山名に加担。これにより、義政・勝元vs.義視・宗全という構図が出来上がる。

伊勢新九郎盛時、のちの早雲庵宗瑞

北条早雲その人である。伊勢の素浪人(主君のいない武士)というのが長らくの定説だったが、上述の通り伊勢氏の分家である備中伊勢氏の出身であることが近年判明した。父は伊勢盛定、母親が本家で、貞親の兄弟にあたる。

この時代の地方の考え方

ところで、赤松氏が統治する播磨、美作、備前について、地理関係を整理しておく。

播磨といえば兵庫の南西部、美作は岡山の北東部、備前は岡山の南東部でこの3国は隣接している。この辺の守護を行なっていたのが赤松氏であると。

脇道に逸れるが瀬戸内海沿いに京都から見て順番に備前、備中、備後だ。前中後で分けた地名というと、越前、越中、越後が思いつく。越後、つまり新潟をさらに細分化して今度は上中下、すなわち上越中越下越。東京起点だとピンと来ないものだが、京都を起点に考えるとわかりやすい。

ちなみにこれらの国は山陽道に属するらしい。兵庫南西部から岡山、広島、山口にわたる、瀬戸内海に隣接する地域を示す言葉だとか。この山陽道はさらに五畿七道というの一つで、行政区画を表している。国=都道府県、地方=五畿七道くらいに考えておこう。ただ、現在は各都道府県にひとりの長だが、当時は複数の都道府県をまとめて一人で納めていた感じか。

都の周辺を畿内と呼び、五畿とは、

  • 大和:現在の奈良県に相当。大国。
  • 山城:やましろのくに。奈良から見て奈良山(京都・奈良の県境)の裏側であることから。京都の南部に相当。
  • 摂津:大阪北部と兵庫南東部。河内国和泉国を合わせて大体今の大阪府か。
  • 河内:大阪東部
  • 和泉:大阪南部

地方を道と呼び、七道とは、

さらに明治維新後に北海道が加わり、五畿八道とも呼ばれる。こうしてみると、京都から見た命名であるからし中部地方から東側の分け方が非常にざっくりしている。東京から見たら山陽も山陰もあんまり変わらないじゃないか、というのと同じか。

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